音楽を、つくる

01 音楽を、つくる

音楽とは、人間にとっての自然な表現行為であり、人類の文化にとって不可欠な部分を占めている。それは祈りという行為から、エンターテイメントにおいてまで、さまざまな場面で機能している。ときに人々を霊的高みに導き、日々の苦しみから解き放ってくれ、ときに彼らの感情や創造の代弁者となり、ときに余暇を過ごすための娯楽的役割を果たす。そして娯楽、エンターテイメントの場面において、リスナーも、その音楽創造の一部を担うことができる。

音楽を理解するには、その音楽を創造するための理論的、技術的知識、経験が必要となる。

音楽とは、捉えがたく、その形式を理解するのが非常に困難なものだ。

音楽の世界に、目視できるものは存在しない。音楽は固有の世界を持っている。他とはまったく異なる言語-音と拍子のパターン-を持っている。

そのパターンは、世界中、どこに行っても言語で表現することはできない。自然界における非常に抽象的な事象なのだ。

「純粋」な音楽を聴いたとき、そのパターンをとおして表現されているものを認識できなければ、それはときに退屈で、イライラとし、苦手なもの、というふうに認識されてしまうだろう。

通常、多くのリスナーは、音楽を主観的にとらえがちだ。自分の体験したことのある感情をとおした形で音楽を解釈する。視覚的イメージや、とくに声楽においては、そこで歌われる歌詞の内容などに影響を受けがちだ。しかしそれらは、「音楽の意味性」という観点から考えると、まったく異なるものなのだということを理解しなければならない。

音楽を理解するために、リスナーはそのコンセプト、音楽的要素、テクニック、音とリズムのパターン、多様性、表現、流れ、様式の展開などを、客観的にとらえる必要がある。理想なのは、客観性と主観性の両方を視点をもつことだ。客観性と主観性、それらは相互を補完する役割を果たすだけでなく、お互いを明白にし、他のものの意味をも豊かにすることができるからだ。

フォークミュージックから古典音楽まで、あらゆる音楽を理解し楽しむには、その音楽的意味を理解している必要がある。そうでなければ、その音楽は単に、よいかわるいか、個人的な好き嫌いによってふり分けられてしまい、その音楽、またアーティストにとっても非常にアンフェアなとらえかたをされてしまうことになる。

演奏時の、聴衆の正直なリアクションは、とくに既成曲ではなく、その場で即興で演奏されるような音楽の場合、その音楽に形を与えるだけでなく、音楽のクリエイティヴィティに無限の可能性を与えるといった重要な役割を果たす。インド古典音楽のコンサートにおける聴衆の存在は、そのエンターテイニングのレヴェルに差をつけ、演奏の基本的クオリティを高めることに重要な役割をもつ。


海外に進出するインド古典音楽家の増加により、海外の聴衆にとって、インド古典音楽というものはもはや聞きなれぬ異国音楽ではなくなりつつある。著名なインド古典音楽家の多くが、中長期間にわたり海外を訪れるようになっている。また、さまざなメディアの発達により、海外においてもインド古典音楽に触れることのできる機会も増えてきている。しかし、海外におけるインド古典音楽愛好家にとって、インド古典音楽というのは器楽中心のものである。シタール・マエストロ、パンディット・ラヴィ・シャンカル、サロード・マエストロ、アリー・アクバル・カーンは、海外の聴衆に、インド古典音楽を広めたパイオニアである。しかしそれが結果として、インド古典音楽とは、シタール、サロード、タブラーといったような、器楽中心の音楽と認識されることとなった。


それとは対照的に、インド音楽の魂ともいえる、器楽のベースにもなっているインド古典声楽が、器楽の後ろに追いやられるというようなことになってしまった。言語の違い、表現やテクニックの違い、発声法の違い、または特殊性などもその原因であるだろう。しかし近年、やはり楽器奏者の方が海外においての演奏機会やワークショップが多かったりするが、少しずつ、声楽に対する興味も増えてきていることは事実である。


もうひとつ、器楽が声楽よりも好まれる理由として考えられるのは、そこで表現されるリズムの多彩さ、楽しさというのもあるだろう。リズムは、聴衆にとって、より強く印象に残り、即座に反応のしやすいものだからだ。インドにおいて、パーカッショニストは、楽器奏者との合奏の際に、非常に重要な役割を担っている。演奏の中に、多くの独奏部分が設けられ、楽器奏者とのリズムの掛け合いなども多く、テンポが上がり、スピード感が増す中、明瞭なリズミカルな表現は、さらに多くのスリル、興奮、喝采を浴びることになる。したがって器楽は今日、インド、海外の両方で、多くの演奏の場をえることができるのだろう。


しかし忘れてならないのは、インド古典音楽とは、たんにエンターテイメントのための音楽ではないということだ。霊的重要性と切り離せない瞑想的性質によって、インド古典音楽は、神聖な起源をもつものと考えられることが多い。それは人が、精神性、情緒性をつちかうための不可欠な力としてはたらくのだ。このような性質により、インド古典音楽は人々の集中力を高め、瞑想状態にいざなう。それは演奏者だけでなく、その音楽を聴く、聴衆にとっても同様である。


そのような音楽の効果を、西側諸国ではヨーガや瞑想に利用することがある。いっぽうで、小さなグループではあるが、純粋に芸術として、学術的、知的観点からインド古典音楽をとらえる、よりシリアスな音楽愛好家、玄人、音楽学習者などもいる。人々の反応、とくに、インド古典音楽初心者のインド人や外国のリスナーの反応は、インド古典音楽をまた別の角度からとらえている。これは、ある意味では、インド古典音楽をさらに成長させ、グローバルミュージックとして変化する助けにもなっているのかもしれない。




◆このページの内容は全て、Dr.Prabha Atre著 「Enlightening the Listener」からの翻訳です。