4. バンディッシュ

ラーグとは、インド音楽における抽象的コンセプトである。それは、想像の種であり、演奏者の熟考、深い思索、それから実際の演奏などを通し、巨大な樹になるべく成長していく。実際の演奏の場で、ラーグは、演奏者の知性と想像力により形づくられていく。ラーグの持つ無限の表現の可能性は、どんな媒体にも閉じ込めることができない。しかし、音楽家たちはラーグを、凝縮された小さな種の形、あらかじめ曲として半分構成された「バンディッシュ」の中に、封じ込めた。

バンディッシュは、広義的にいえば、規定のラーグ(旋律)と、タール(拍子)、ガート(音楽形式)を内包させた、半既成曲、という風に言えるだろう。インド古典声楽におけるバンディッシュは、スワル(音)とラヤ(拍)により形成されるが、それらの言葉は、意味があったりなかったりする。バンディッシュのおもな目的は、ラーグやガートの設計図を常に演奏者に指し示し、どのような表現が可能なのか、さまざまな方向性を探る手助けをするということだ。演奏家たちは、バンディッシュの枠組みを土台にし、自分たちの能力に応じてラーグの詳細を提示したり、ガートを展開していくのだ。

かつて、満足のいく楽譜、記譜システム、そして印刷設備のなかった時代、バンディッシュは非常に重要だった。音楽は基本的には、聴覚により知覚される聴覚芸術だ。しかし、音、拍子、テンポなどに記号をふりあてて、曲を書いたり読んだりするのに役立つ、記譜法と呼ばれる一種の楽譜を作成するという努力は続けられている。しかし、これまでのところ、インド古典声楽、器楽の、音の動き、表現のあらゆるニュアンスを、正確に表記することのできる方法はない。インド音楽は、さまざまな形の音へのアプローチ、ある音を外したり、2つ、または3つの音をつなげたり、音の演出、装飾音への比重の置き具合や発声方法などといった、表記法ではほとんど不可能なテクニックが多くあり、実演を聞かなければ学ぶことのできないものだからだ。

バンディッシュの音符は、その音のアウトラインを学び、理解するための骨格のようなものである。譜面に閉じ込められたバンディッシュはまだ眠っているようなもので、活動的ではなく、命が吹き込まれる前の状態なのだ。それが、声楽家の声によって、演奏者の楽器を演奏する指先によって、命が吹き込まれるのである。

時代の流れとともに、バンディッシュのあり方、構造も、ときに目新しいものを導入するために意図的に、ときに必要に迫られ、さまざまなジャンルの音楽に適応するよう、変化してきた。

それにより、ドゥルパドよりも前の音楽スタイル、アシュタパティでは8つのセクションに分けられていたバンディッシュも、ドゥルパド・ダマールでは、スターイ、アンタラー、サンチャーリ、アーボーグ、といったように4つのセクションに減り、その後発展したキヤールにおいては、スターイ、アンタラーの2つのセクションだけとなった。最近ではおもにヴィランビット(キヤール演奏の最初に演奏するゆっくりとしたテンポで演奏されるパート)において、アンタラーが割愛され、スターイのみの演奏になっていっている傾向が見られる。バンディッシュは確かにガートを表現はしているが、必ずしもラーグを表現しきれているということではない。ラーグの存在のしかたは、特定のガートによって異なってくる。

1. インド古典音楽、またはラーグ音楽(キヤール、タラーナー、など)において重要なのは、ラーグのみである。歌詞(意味があったとしてもなかったとしても)は、音楽要素の一部であり、ラーグ自体は、その歌詞からは独立しているものだ。

2. ライトクラシカル音楽、もしくは、ラーグ・ワード(歌詞)音楽(トゥムリー、ダードラーなど)では、歌詞は、ラーグと同じくらい重要である。ラーグと歌詞は互いに相互関係にあるが、お互いから独立もしている。

3. ライト音楽、もしくは歌詞重視音楽(ギート、ガザル、バジャン、など)では、言葉がとても重要。ラーグ表現は必ずしも重要ではなく、表現されていたとしてもそれは、歌詞と独立して表現されるものではない。

バンディッシュを作る際、特定のガート、そのガートにおけるラーグのあり方をまず考えなければならない。それが声楽のためである場合は、その選択する言葉、そこに含まれる感情などにも配慮しなくてはならないだろう。それらすべてをとう襲したものだけが、本当の意味における、バンティッシュとなりうる。バンディッシュが作られる過程において、そのバンディッシュのスタイルとテンポも確定される。これは非常に重要で、そのスタイルとテンポを守るか否かで、そのバンディッシュのもつ本来の美しさが損なわれるかどうかが左右される。多くのガラーナーは、特徴あるバンディッシュを持っており、それぞれのガラーナー、個別の美意識がそこに現れているのだ。ガラーナーの枠にとらわれないクリエイティブな音楽家たちは、自分のスタイルに合うバンディッシュを作曲し、演奏会では彼らの明らからな音楽的個性の表明をアピールした。

北インド古典声楽において、その歌詞の文学的側面はいくつかの理由により着目されなくなり、単語の響き、その感情的内容も重要性を失っていった。その結果としての全般的な無関心、バンディッシュの歌詞における文学的クウォリティに対する意識の欠如をもたらしてしまった。実際に現在見られるバンディッシュは、なかなかまとまりがないように見える。歌詞に関してもそうであるが、バンディッシュの音楽的構造にしても、上記のような創造性の著しい欠如を感じざるを得ない。現在、バンディッシュは、それが古典的バンディッシュであっても、いくつかのヴァージョンが存在する。同じグルに学ぶふたりの生徒が、必ずしも同じバンディッシュを同じように演奏する保証はない。そのちょっとした変化は、グルによってもたらされる場合もあるし、意識的、無意識的に生徒が変化を加えることもある。それぞれのラーグの個性やバンディッシュの構造に関する、一般的な共通認識があるにも関わらず、そのディテールの中には細かな表現の違いが存在する。このことが、北インド古典音楽の定型を定めることの難しさとなっている。

いっぽう、南インド音楽では、歌詞として扱われている詩は、一般的に定番化され、受け入れられている。南インド音楽の中で、歌詞は非常に重要な位置を占めており、歌手が勝手にそこにアレンジを加えるというような自由は存在しない。このような制約が、歌詞を、楽譜のように固定するということの一助になっている。そのため、南インド音楽では、数百人もの歌手や器楽奏者が同じバンディッシュ(クリティ)を同時に合唱、合奏する、ということが可能なのだ。はじめから最後まで、通してあらかじめ作曲されている、ということが合唱曲の基本である。西洋クラシカル音楽もまた、ハーモニーを奏でる合唱、合奏があらかじめ楽曲に規定されているため、個々の演奏者に譜面にない、演奏の自由というものは与えられていない。

北インド古典音楽というのはそもそもソロ演奏が基本である。そのため、ラーグ表現を即興的に構築したり、バンディッシュをアレンジすることのできる自由が演奏家に与えられている。それによって、すべての演奏家は、同じラーグでもさまざまな角度から表現することができるといった、北インド古典音楽の非常に大きな利点を生み出した。ラーグ表現は無限に思え、美の地平線は広がり続けていったのだ。そのことから、バンディッシュへの重きは薄れ、より自由度の高いラーグ表現へ重点がおかれていった。

バンディッシュは、ガートとラーグについての知識を養い、タールによる制約を理解し、文学的意味と、美的感覚を感じ取ることができる、というような性質を持っている。古いバンディッシュであれば、「良い」とか、近年作られたバンディッシュは「良いものではない」というようにジャッジされるべきではない。どのバンディッシュでも作られた当時はすべて「新しい」ものであるのだし、どのような時代に作られたバンディッシュであっても、それが優れたものであれば、ガートを展開する際、多くの彩りをそこに与えることのできるものになるだろう。

古典的なバンディッシュが数多くあるなか、なぜ新しいバンディッシュを作る必要があるのか、という疑問はつねに起こる。音楽は時代とともに変化し続けており、その時代の風潮に沿うようなバンディッシュを作ることは必要だろう。多くの優れた演奏家はその時代時代に、自ら新たなバンディッシュを作り、演奏されるバンディッシュのレパートリーを増やし、それが耳の肥えた優れた聴衆たちにより受け入れられてきた。ある特定のガラーナーを超えた、自由な表現を求めたり、何か今までとは違う新たな表現の活路を見出そうと探求し、そう願う情熱をもっていたりと、多くの演奏家が今日まで、新しいバンディッシュを作り出してきたのには数々の理由があるのだ。

その時代の厳しい目に晒され受け入れられることのできたバンディッシュは、将来の「伝統的バンディッシュ」として認められるだろう。完全なる新たなものはありえない、新たなものを受け入れるスペースを生むのが、古いものなのである。

現在、記譜法などといった、音楽学習をするためのさまざまな手段があるが、口頭伝承に優る代替法はまだない。音楽教育を授けるための口頭伝承の伝統は、バンディッシュを保存するのに非常に役にたち、そのバンディッシュがインド古典音楽を保存することとなっている。このことが、インド古典音楽にとっての、バンディッシュの非常に大きな役割なのではないだろうか。

 

 

◆このページの内容は全て、Dr.Prabha Atre著 「Enlightening the Listener」からの翻訳です