10. キヤールと近代化 new!

近代化の流れはますます加速し、その流れにあらがうのは、もはや不可能なほどだ。近代化された新しい環境により、新たな創造性がもたらされる。新たな流れにより淘汰されるもの、生み出される新しい技術、新しいパターン、新しい動き、新しい表現があるだろう。このような観点で舞台芸術を見ると、時代の変化による可能性の大きさに驚きを禁じ得ない。

近代化とは何か?どうして、どのようにしてそれは始まったのか。それは、伝統と融合できるのか?伝統芸術について論じるとき、この問いは常に大きなテーマになる。

様々な分野の学者たちがこのテーマについて論じてきているが、芸術の領域において、この問いに対し、明確な回答はない。しかしどうだろう、その回答を明確にする必要があるのだろうか。このテーマに対する最終的な解答はなく、ただそれを論じ、熟考することこそが重要なのではないだろうか。そのプロセス自体が、思考の一新を図る役目を果たすのではないか。

今日の北インド古典声楽の近代化について考察するにあたり、「キヤール」がどのように古典音楽の中に浸透し、どのような影響を与えたのかを見てみよう。

背景

近代技術の出現、発達により、インド独立後の政治的、社会的な世界の動きが芸術家の運命やその生活に重要な影響を及ぼした。藩王国の合併、寺院での定期的な礼拝における舞踊、演劇、音楽の重要性の低下、ライフスタイルの西洋化、富裕層やエリートの、芸術や芸術家との親交をステータス・シンボルとして利用するような傾向、芸術に対する政府の無理解、それに伴う非効果的な政策の実施などすべてが、芸術を庶民のサポート抜きには存続不可能なような状況へ追いやった。ただいっぽうでは国家のアイデンティティ、または国家の誇り、というような新たな感覚が、芸術としての古典、伝統芸能への敬意の念を生み出してもいる。近代的インド芸術のための種子はここに見出すことができるだろう。

伝統

前世代に「伝統的」なものとして歌われていたものは、それ自体何世紀に渡り発展してきたものであることを忘れてはならない。前世代の音楽は、当時の芸術家がその時代による影響、芸術的ニーズに対応しなければならなかったことは自明である。芸術は、時代の変化やニーズを認識したものでなくてはならない、ということに同意するならば、芸術形態の変化は不可避であり、むしろ極めて必要なことであると考えなければならないだろう。古典音楽は、その時代の文脈の中で考察しなくてはならない。

聴衆の貢献

インド音楽が何世紀にも渡り進化し、保存され、伝播し、進歩してきたことに、聴衆は音楽家同様に貢献してきた。インド音楽コンサートの特徴は、演奏者の創造に、聴衆がボディランゲージや掛け声といったやり方で積極的に参加することである。

演奏中、繊細な音楽家と耳の肥えた聴衆の間には絶え間ないやり取りがあり、音楽家は聴衆の反応を受け、自身の創造した音楽を再創造する。インド音楽のコンサートではこのようなことが昔から行われてきた。

わたしたちは最古の音楽ヴェーダ詠唱から現在の古典形式キヤールといった、古きものから新しきものへと連綿と続く変遷を見てきた。しかし、音楽が主に娯楽のために採用されるようになったとき、聴衆に常に新しいものを提供することが演奏家の大きな目的になってしまった。音楽業界の熾烈な競争により、伝統を破壊するかのようなことが現在起こっている。しかしそのいっぽうで、多くの思慮深く責任感のある演奏家たちは、みずみずしく美しい形で伝統を豊かにしているのも事実である。

キヤール

キヤールは、現代の北インド古典声楽を代表する音楽形式だ。ドゥルパド・ダマールの演奏も耳にすることはあるが、やはりキヤールの「祖先」として位置づけられることが多い。キヤールは200年以上にも渡って歌い継がれてきたが、聴衆の視聴態度の変化も伴い、そのスタイルの変革を免れることはできなかった。

かつてキヤールは、ドゥルパド・ダマールの形式と非常に親密な関係であったということが現在では明らかになっているが、その変貌は、毛虫から蝶々へとメタモルフォーズするプロセスを想起させる。

キヤールという音楽形式にとって「自由」は合言葉であり、無限とはその自由の「在る」場所であり、ほとんどすべてのものを受容し包括する傾向を持っている。映画音楽、演劇音楽、フォークミュージック、器楽、南インド古典音楽、西洋音楽、非インド音楽、またテクノロジーの発展などによって引き起こされてきたさまざまな音楽的影響に対して行ってきたキヤールの戦いは非常に興味深く、注目に値するだろう。

伝統や美についてのアイディアは、世代を超えることができ、人々の心に深く染み込んでゆく。しかしそのアイディアはしばしば深い考察ぬきに、盲目的に借用されてしまう。

音楽を享受するためのテクノロジーの枝別れの増大にともない、音楽経験の幅も広がった。テクノロジーの進歩は、自身の生活を客観的に見るようにしむけた。

ある自立した思考と経験に対して、その根拠をきちんと検証することもなく、伝統の権威を簡単に受け入れない、というような探求精神が現在広がっている。

既存のルールや規制の枠組みが表現の自由を侵害するとき、それは叩きのめされ解体され、崩壊を余儀なくされるだろう。

ラーグとタール

インド音楽において、最も特徴的なラーグとタールという概念は、時代のニーズにあわせて形成され、成熟してきた。ラーグの文法を形成すると言われていたヴァーディ、サムヴァーディ、タートなどは、その重要性が薄らいできている。現代において演奏家がラーグ演奏をする上で注視していることは、主にラーグに使用される音、上昇、下降音階の特徴的な動き、そのラーグをラーグたらしめる核となるフレーズ、そして演奏家自身による、そのラーグ全体としてのキャラクターの解釈だろう。こうした演奏家の態度は、ラーグの発展と表現の細部に影響を与えている。

ラーグというボディの一部を形成するすべての音符の機微の表出を、徹底的に試みるため音の微妙な装飾や繊細な表現が増え、ヴィランビット(ゆっくりとしたテンポ)キヤールのタールの速度は非常に遅いものとなっていった。アーラープ(ゆっくりと展開するフレーズ)表現においてタール(拍子)を無視する傾向があるが、その根底には、タールという枠の範疇に収まることなく、時間的区切りから開放された自由で微細な表現を目的としているという理由があるのだ。このようにゆっくりとしたテンポで展開されるアーラープで、フィリグリー(金細工)のような表現が可能になったことにより、逆に非常に速いテンポのターン(速いテンポのフレーズ)では、パフォーマンスに驚嘆と興奮といったような要素を付加できるようになった。

そして、最新のサウンドシステムの導入により、歌や楽器の微妙なニュアンスも非常に明瞭で鮮明な音で聴衆に伝えることが可能になり、演奏家たちはそういった複雑で繊細なパターンを作成することに喜びを感じることができ、聴衆からの評価も得られるようになった。

ヴィランビット・キヤールのバンディッシュ~短縮されるスターイ

インド音楽は、口伝伝承の伝統にのっとり生き抜いてきた音楽だ。口伝伝承の伝統において、バンディッシュ、半既成の曲というのは、特定のラーグとガート(形式・ジャンル)の演奏形態がプログラミングされている一粒の種と捉えられ、非常に重要であると考えられてきた。このような観点から、バンディッシュは演奏家に対し、ラーグを自覚し、ガートを推定するためのガイドラインを提供しているものであると言えるだろう。しかしそれはまた、バンディッシュ、または歌の歌詞の音色的構造内にとどまるよう、間接的に演奏家の表現に制限をかけるものになる。今日の演奏家たちは、このような制限のないラーグ表現を求めるものが多い。また、キヤールは抽象性に重きをおいた音楽表現である。演奏家は「純粋」な音楽構成要素であるスワル(音)とラヤ(拍)のみで構築された表現を好み、歌詞のなかにある特定の単語の意味でフレーズを脚色することを避けたいと考えている。

そのような演奏家の嗜好により、とくにヴィランビット(ゆっくりとしたテンポの)キヤールでは、歌詞の長さが短くなっていった。バンディッシュの後半部分、高い音階で展開するアンタラーにおいては、そのパートが演奏される機会は減っており、前半部分の、中音域で展開されるスターイのパートは通常、1サイクルのタールのみで構成されるようになっている。

このように言語を用いた構成箇所は小さくなってはいるが、ラーグの表現としてはより感情的でロマンティックになり、歌詞で使用される言葉は、このような表現のために採用されるようになっている。

サルガム

昨今のラーグ演奏の形式において顕著に見られる傾向として、ボル・フレーズの代わりにサルガム・フレーズを採用するというものがある。その理由として挙げられるのは、歌詞の長さが短くなったこと、それはボル・フレーズだとフレーズにあわせ歌詞の言葉を分解しなくてはならず、そうすることにより、歌詞の感情的な意味合いの欠落を強いる可能性があるからだろう。サルガムとは音名短縮記号、サー、レ、ガ、マ、パ、ダ、ニ、音楽言語として意味を持つアルファベットである。これらは、音楽的な意味と、音楽的なフレーズの美的感情を体現することができる。また、アーラープやターンにおいて、音名発音が困難、または不可能に見える複雑なパターンであっても、音名の短縮語であるサルガムを使うことにより、簡単に発音、発声することができるのだ。サルガム・フレーズはキヤールだけでなく、ガザル、ギート、バジャン、映画、舞台音楽、ポップス、ディスコミュージック、フュージョンミュージックといった歌詞優位の音楽の中でも、自由に採用されている。

科学技術の進歩

20世紀、世界は科学技術の新しい時代の到来を告げ、人類全体に大きな影響を及ぼした。それは非常に急速な変化を伴い、様々な場面に波及していったが、当然その影響は芸術の分野にも及んだ。ラジオ、テレビ、映画、オーディオ・ビデオの録音、インターネットなどといったあらゆるメディアが、世界中の様々な音楽を大衆にぐんと近づけた。その結果、非常に短い期間でこれらのメディアは増大し、音楽に対する意識レベルの異なる視聴者のために、様々な種類の音楽に対する需要を生み出した。彼らの好みは異なり、音楽や演奏家たちへの期待も異なっていた。

科学技術はまた、演奏家と観客の関係に大きな変化をもたらした。テレビは音楽を「視聴芸術」に変容させ、マイクは演奏者と観客との間の物理的な距離を広げ、実際の演奏中、音楽を創造していく上で非常に重要であった演奏家と観客の間の芸術的コミニュケーションレベルに影響を与えた。演奏家が、自身のアートを商品とみなし、観客がアートを娯楽の一部と見なす新しい社会が生まれた。これは、音楽芸術が神聖なものと捉えられ、演奏家が神格化されていた初期の時代の芸術に対する人々の姿勢からの、重大な変化を示している。

マイクロフォン

美に対する考え方だけでなく、その鑑賞の仕方も時代により変化してゆく。マイクロフォンが出現する以前、歌手の声は、ホールの隅にまで聞こえるような声が良い声だとされていた。当然、歌手の繰り出す音の芸術的細工は、すべての聴衆に聞こえるものでなくてはならず、声の大きさは重要であり、音符は真っ直ぐで大胆、フレーズのスピードはゆっくりとしたものになりがちだった。しかし、マイクロフォンがそこに革命をもたらした。声の大きさはもはや重要ではなくなり、歌手の息遣いさえも聞き取れるようになった。音の音色が重要視されるようになり、歌手たちは声によるコミュニケーション能力を高めるため、音量、音色、音域、スピードを意識的に操るようになっていった。アーラープの音符の金細工のような表現はより繊細で緻密になり、ターンはよりスピード感をもち、フレーズの音符の組み合わせはより複雑なものになっていった。

映画音楽

映画は今日、ひとびとに最小限の費用で様々なエンターテイメントを提供するもっとも大きなメディアである。都市部から地方まで、この国の隅々、いたるところ、映画の魔力にかかっている。音楽はインド映画の主要かつ、重要な部分であり、音楽制作は非常に大規模で、途方も無い宣伝をうつため、こちらが望む望まないに関わらず、ラジオ、テレビ、携帯電話、道路や公共の場所で流れ、その音楽を聞かないわけにはいかないほどだ。

映画音楽はこのような宣伝方法を取るため、社会の様々な階層の人々に非常に簡単に行き届き、社会全体の感情的生活の中に浸透してゆく。古典音楽家やその聴衆らも、その影響を受けずにはいられないだろう。

これは偶然か、もしくは良い声を求め意識的に探求した結果か、映画業界は幸運にも非常に繊細で表現力に富み、エモーショナルで甘美な声のプレイバックシンガー(映画音楽歌手)を排出することができている。これらプレイバックシンガーの声は意識的にも無意識的にも、古典声楽家の声と比較されるようになった。それまでは古典声楽家の声の質はそれほど重要視されるものではなかったのだが、今では古典声楽家にとっても「美声」というのは必要不可欠なものとなり、聴衆から拒絶されることを避けるため、声の質を意識するようになっていった。声楽家たちは、自身の声をより美しく、より印象的なものにしようと務めるようになった。ソフトだったり、ささやくような声であったり、大胆であったり、シャープであったり、おおらかであったり、開放的なものや、ハスキーなもの、、、音色や音量を操作し、声の質感を変える、というアイディアは、今では古典声楽家の中でも好まれ採用されている。

声楽家が、非常に高い音程で歌おうとしたり、より高いオクターブの音符に到達しようとすることは、映画音楽が古典音楽に与えたもうひとつの影響である。高音を出すことは、確実に喝采を得ることができる音楽的な仕掛けとなっているのだ。

映画音楽では、ストーリーやアクションがその背後にあるため、言葉や感情表現が非常に重要になってくる。言葉の重要性を強調する表現が古典声楽にも影響を与え、言葉の発音はより明確で的を得て、優雅でいて感情的なものになっていった。音楽的文法を重視するいっぽうで、美や感情をより意識して歌うようになっていったのだ。映画音楽が古典音楽にもたらしたもうひとつの影響、映画音楽で、主要な役割を果たす「愛」というテーマ性が、古典音楽の中にも溢れ始めたことだ。映画のシーンで男女のデュエットが歌うように、古典音楽でも二人のアーティストが同じステージで一緒に歌う、という形が見られるようになった。古典音楽では一般に「ジュガルバンディ」と呼ばれる、主奏者が二人以上、同じ、または別の楽器、声楽で一緒に演奏するというスタイルがあるが、このジュガルバンディには一緒に演奏する際に、競い合うような要素も含まれていた。しかし今日のジュガルバンディは「ユガルサンギート(デュエット音楽)」となり、演奏家は互いに補完し合うようなかたちで歌ったり演奏したりするようになった。このような傾向は、古典音楽の内容、表現に影響を及ぼしている。

タブラーのタールのテーカーの多様化も、映画音楽の貢献の一つである。新しいテーカー(映画のリズムメーカーの世界では「パターン」と呼ばれている)は、言葉の構成や調整だけでなく、ガート(ジャンル)として発展し展開することにも貢献してきた。いっぽうで古典音楽家に声の音色、言葉の発音、感情表現、表現の鮮明さや端正さなどを意識させ、聴衆の耳も、それらを聞き取れるような洗練されたものに鍛えてきたのだ。

舞台音楽

マハーラーシュトラ州における古典音楽は、舞台音楽として独特な発展をしてきた。舞台音楽は、民族音楽や古典音楽を起源としているが、徐々に独自のスタイルを確立していった。

舞台役者、歌手は様々な面において利点があった。映画と同様に、歌手が歌う歌のムードに合うような物語や舞台設定がなされ、歌は演劇の本編に歌そのものとして織り込まれ、文芸的意味合いも見出すことができた。それに加え、舞台演劇では、その演技も歌もライブパフォーマンスで行われた。

舞台歌唱(ナッティヤ・サンギート)は、後光を纏い歌う、バル・ガンダールワのような非常に魅力的なアーティストにより歌われた。このようなアーティストに歌われることにより、舞台音楽は、一般の人々の心に大きな影響を与え、多くの大衆の支持を集めた。古典声楽家たちは、彼らとは全く異なる方法により聴衆の心を動かす舞台音楽のスタイルに自然と惹かれていった。マハーラーシュトラ州の古典音楽には、舞台歌手の特徴的な音楽作法や、ターンの表現方法、様々なバリエーションで、同じフレーズを繰り返す傾向などといった舞台音楽の特徴が導入されていった。

フォークミュージック ー民謡

フォークミュージックは人間の心の自然な表現であり、ほかのさまざまな種類の音楽に絶えず影響を与えてきた。インド独立後、フォークミュージックはふたたび人々の文化的生活の中にその存在意義を獲得し、現代型古典音楽をも豊かにしてきた。音楽家たちは、古典音楽の旋法(ラーグ)、ジャンル(ガート)、テーマの中に、フォークミュージックの特定の「ドゥーン(メロディ)」を採用した。その大らかでのびのびとした自由な表現は、シンプルでいて美しく、素朴な品質と魅力的なリズムから生まれる陶酔感と興奮は、古典音楽家らをも魅了した。

フォークミュージックからインスパイアされた古典音楽は、新たな魅力と興奮を聴衆に提供し、こうした民族音楽は音楽市場においてひとつのスタイルを確立している。

器楽

インド音楽の「魂」である声楽は、その音楽的位置が、器楽に比べ高いものと認識されている。そのため器楽は長い間声楽の影に隠れ、これといった目立った発展を遂げることはなかった。しかし昨今、器楽は声楽の発展とは異なる独自のスタイルを形成してきた。器楽奏者らは、楽器固有の特性に気づき、演奏においてこれらの性質を巧みに採用していった。器楽演奏の斬新さ、演奏者の巧みな技術は、声楽家たちに、器楽について今までとは異なる見方をすることを強いることになった。器楽奏者が声楽を模して演奏することは新しいことではなく、今日では声楽家が器楽の典型的な表現を採用しようとしているのだ。声楽家、器楽奏者共々、お互いの表現法の模倣の限界を認めつつ、お互いのアイデンティティを保ちながらそれを試みている。シタールやサロード特有の音の揺らぎや、ジャーラーのような速いテンポのターンを声楽家が採用していたり、昨今人気の高まっているサルガム唱法により、器楽でよく演奏されるような音の組み合わせや表現についても考察するようになっている。

カルナータカ音楽 -南インド古典音楽

インド古典音楽には、ふたつの主要な音楽システムがある。ヒンドゥルターニー音楽と呼ばれる北インド古典音楽、カルナータカ音楽と呼ばれる南インド古典音楽である。

ラーグとタールの概念は共通しているが、そのアプローチ法、テクニック、表現、演奏法には違いが多いが今日では、これら南北のシステムは、相互に補完し合い、高め合うような傾向にあるようだ。ヒンドゥスターニー音楽で演奏されるラーグ、カルナータカ音楽で演奏されるラーグをお互いが拝借し合うということはずいぶん以前から行われており、一部の既成曲もなんらの変更も加えずに採用することもあった。現在ではさらに、ヒンドゥスターニー音楽の中で使われる唱法「ガマク」や「サルガム」のフレーズに、カルナータカ音楽的タッチがはっきりと現れているように、それぞれの音楽の表現方法や、そのスタイルを形成するディテールに、双方が影響を及ぼしあっている。現在、お互いの音楽表現のエクスチェンジ、相互充実の実現として、ヒンドゥスターニー音楽とカルナータカ音楽の音楽家が集いジュガルバンディ演奏するという新たな試みも行っている。以前は、言語の違いは互いのスタイルに向き合うためには大きな障害となっていたが、ラジオ、テレビ、コマーシャル、コンサートなどで、南北の楽器にはいくつかの共通した音楽要素があるということを徴収に気づかせた。それはまた、北と南の間の距離を縮めることに役立った。

ガート -ジャンル

ラーグ音楽を解き明かそうとしていくと、時代のニーズに合わせ多くのガートが出現したことがわかる。それは時代の変化とともに消滅したものや、時代に適応することで生き残ったものがある。ドゥルパド・ダマール、キヤール、タラーナー、タッパー、トゥムリー、ダードラー、ギート、ガザル、バジャンと呼ばれるものは、ヒンドゥスターニー古典音楽における現代古典、ライト古典、そしてライト・ガートの一部である。そしてこれらすべてのガートには、独自のスタイル、特徴があるが、その境界線は年々薄まっていく傾向にあるようだ。キヤールとトゥムリーの奏法の違いさえ、明確ではなくなっていっている。演奏家たちは、それぞれの能力に応じ、他のスタイルから魅力的と感じた音楽表現を取り入れ、利用するようになった。とくに、演奏会でひとつのガートの音楽のみを演奏する機会を与えられた演奏家は、他のガートの表現を意識的に取り入れ、演奏をよりエンターテイメント性の高いものにしているようだ。そして昨今、古典音楽ガートのひとつであるキヤールは、ライト古典音楽ガートのトゥムリーと、非常に親密な親和性を示している。キヤールで使用していなかったムルキーやカトゥカーと言ったヴォーカルテクニックも、「トムリー・キヤール」として新しい形で採用されたり、ライト・ガートのガザルでは、ゆったりとしたアーラープ、ターン、サルガムなどの古典技法を取り入れることでキヤールやトゥムリーに近づいた表現音楽になっている。異なるガート間でのこのような表現方法の交換は今も絶えず続いている。

西洋音楽

英国による統治以来、西洋音楽は、インドの演奏家や聴衆の意識的、無意識的に影響を及ぼしてきた。とくにインド映画音楽にとって、西洋音楽の影響は非常に大きなものだ。ライト音楽にしても、もう手に負えないほどの勢いだ。しかし、主に西洋音楽のハーモニーの概念がインド古典音楽の特色であるメロディーの概念とは異質であるため、インド古典音楽はその影響から免れてきた。ハーモニーの概念をインド古典音楽に導入しようとするならば、別の多くの部分をインド古典音楽から排除する必要がある、という問題に直面する。ラーグとは、スケールによって表現される抽象概念であり、音符によりそのラーグを表現する際、「ミーンド」や「ガマク」といったヴォーカルテクニックを使って音符をつなげたり移動したりして、その個性を表出していく。

しかし、新たな試みとしては、ヒンドゥスターニー古典音楽であっても、メインの演奏者が、特定の音にとどまっている間に、共演している別の楽器がコードを演奏することで、ハーモニーの幻想が生み出される、ということも不可能ではないだろう。

同様に、サルガム表現の際、音名が、和音の線上にパターン化され、特定の方法で発音されたら、それは、ハーモニーに似た錯覚を得ることができるかもしれない。ただし、これらは、非常に限られた条件のものでなければ実現しないだろう。

音楽のグローバリズムにおいて、われわれが気づかされることは、ラーグはその剛性を失っていっているということだ。この変化は、インド古典音楽で使われる音楽素材、テクニック、演奏されるパターン、表現などから、垣間見られるだろう。これらの変化は非常に微妙なものだが、敏感な耳と分析的な考えを持ってみると、その変化に気づかされる。

まとめ

映画、フォーク、カルナータカ、器楽、西洋、非インド音楽、科学技術の進歩などによって、古典音楽、またはラーグ音楽、そしてその代表的音楽形式であるキヤールが与えられてきた様々な影響は、結局その表面的な部分のみが受けただけであってラーグやキヤールの「核心部」に影響を及ぼしたわけではない。これら外部からの干渉は、ラーグやキヤールの美しさを深化させてくれたほか、インド古典音楽延命のための助けにもなった。

今日のヒンドゥスターニー古典音楽は、「古典音楽のレベル低下によって、本来の純粋さを保てていない」、「古典音楽は変化を好まず、時代錯誤」と言った、ふたつの矛盾した批判にさらされている。「古きことは良きこと」という考え方、「悪しき古い習慣」と主張することは非常に極端な視点ではないか。

創造的現代性とは、伝統的な本質や基盤を失うことなく、新しい道を模索することである。古典音楽が生き残るために、新しいアイディアに適応し、変化しなくてはならないだろう。現に、そうやって演奏家たちが、必要と判断したときは新しいトレンドを取り入れてきた。しかし、古典音楽の基本的考え方や構造と調和したトレンドのみが忖度され吸収されてきた、ということも忘れてはならない。ラーグ音楽を代表するキヤールは、自身の表現がより感情的充足感や、高揚感に寄る変化を遂げたとしても、生き残り、そのアイデンティティを維持させていきたいと考えている。古く長い歴史により培われたキヤールという音楽形式は、また新たな枝葉を伸ばしていく。それは時代とともに変化をすることの必要性を意味するのだ。

 

 

◆このページの内容は全て、Dr.Prabha Atre著 「Enlightening the Listener」からの翻訳です。