12. ガザル、音楽の旅 new!

かつて、映画音楽と肩を並べるほどの人気を博す音楽が他に現れるなんて、誰が想像しただろうか。しかし、コンサート会場を満席にし、家庭やレストラン、自動車の中から聴こえてくるガザル音楽が、今では映画音楽の人気に匹敵するポピュラー音楽だということは誰もが認めざるを得ないだろう。

映画音楽がこれほど人気があるのは、誰にでも理解できる音楽的魅力を持っているからだ。シンプルな歌詞は、映画のシーンや俳優らの華やかさを引き立てるように作られており、庶民的雰囲気は都会に住む人々以外の多くの人々にも魅力的だ。一方ガザルは、映画音楽に比べはるかに複雑である。リズムパターンも難解だし、使われる言語も馴染みのないものが多い。それでもガザルは人気があるのはなぜだろうか。

大儀的に、インド音楽は、「スワル(音)重視」音楽と、「歌詞重視」音楽の2種類に分けられる。スワル重視音楽は、一般的に、ラーグの概念と結びついており、歌詞重視の音楽は、言葉と、感情に結びついている。人々にとって言葉が主体の音楽を理解するのは容易である。音楽は二の次、聴衆は歌詞を通し、音楽を楽しんでいるのだ。

音楽で飾られた言葉は、意味も情緒もさらに深まる。言葉は音楽に文学的豊かさを与え、聴衆は音楽を理解できなくても言葉を通してガザルを堪能することができるのだ。実際に歌詞重視の音楽を聴くのにその音楽的意味を理解する必要はない。しかし、スワル重視の音楽では、歌詞があったとしても、音楽にのる言葉の音色構造や意味は失われてしまうため、音楽的な意味を理解することが必要になる。これがスワル重視の音楽、つまり古典音楽が、音楽教養のある聴衆に評価される理由だ。

詩としてのガザルは、ウルドゥー文学の中で、非常にユニークな立場にある。ガザルには独自の構造と基準があり、その詩も特別なものだ。「ムシャーイラース」や、「シャーイリ」(ウルドゥー語で「詩」の意味。)といったプログラムに参加したことがある人や、映画を見たことのある人は、観客が積極的に参加していることに気づくだろう。詩人や歌手が、詩の一節を詠った後、聴衆が残りの節を詠うといったやりとりから、ガザルにおいての言葉の重要性が理解できる。これがガザルが歌詞重視の音楽のカテゴリーに属する理由である。

ガザルは言語表現芸術として始まったが、音楽のフィールドに入ると次第に音楽的要素を強めていった。ガザルは時代とともに完全に変化を遂げた。詩の朗読だけだったガザルが、今日ではさまざまな種類の音楽表現を用いている。実際にガザルは古典音楽の代表格であるキヤールにも迫る勢いである。

トゥムリーはライト古典のガートで、最近では古典音楽のコンサートにおいて、キヤール演奏の次に演奏される演目のひとつである。トゥムリーは宮廷娼婦たちによって歌われていたが、音楽的に非常に高度な発展を遂げ、複雑化していった。それはカラーヴァンティン(藩主などの前で音楽を演奏したり踊りを踊る女性)との結び付きが強く、古典音楽への深い傾倒があったからだろう。しかしながらトゥムリーは、なかなか古典音楽のコンサートでは受け入れられなかったが、やがて時代は変わり社会の考え方がよりリベラルになるにつれて古典音楽のプラットフォームでキヤールとともに喜ばれる音楽にになっていった。古典音楽から遠ざかっていた音楽愛好家たちも、言葉の意味も重要視しながら音楽的な精巧さを持つトゥムリーにはよく反応するようになった。トゥムリーにおいても時折ターンやサルガムなどを取り入れるようになったが、キヤールのそれに対抗するようなものではなかった。

今日の一流アーティストにより歌われるガザルは、トゥムリーとは対象的に、世界中の音楽からさまざまな要素を取り入れたり、ゆっくりとしたテンポで進むこともあれば、駆け上がるような非常に速いターンを織りまぜさせたりと、非常に柔軟で威風堂々とした性質を持っている。サルガムと戯れながら踊り、驚くほど巧みにリズムを操り、時にはスリリングなディスコ・リズムで人々は酔いしれる。西洋の和音進行やインド音楽では耳にしない音程を取り入れたりもするし、ドゥエットで歌うときも、ハーモニーやリフを使用したりすることもある。このような唱法を用いることで古典音楽ベースの構造に現代的な魅力を加えているのだ。

ガザルは時に、キヤールのような厳かさや静穏をたたえることもある。ガザルの曲を聴くと、それがラーグの概念から拡張された音楽表現であるということがにわかに信じ難い。伴奏においても、それが一台のハルモニウムであってもフルオーケストラであっても同じように対応できる。ドゥエット曲は、ガザルに新たな味わいを与え、それが人気となっている。加えて、見た目においてもガザルは魅力的に変化している。

ガザル歌手は、プレイバック・シンガー(映画音楽歌手)と同等であり、コンサートの回数においては、プレイバック・シンガーを上回ることもあるし、同じくらいの報酬を得ることができる。

高額なチケットでも、ガザルコンサートでは席を確保できないことも多いし、国外でも人気が高い。海外に住むインド人家庭には必ずガザルのレコードがあるし彼らは海外でグループを作ってレコードを発売し、それを持ってインド国内で演奏会をしたりするようになった。

今日のガザルはどのように作曲され、どのように表現していても聴衆に受け入れられるほどの大衆性を獲得している。インド古典音楽の特徴であるアーラープ、ターン、サルガムなどの音楽要素をガザルに取り入れると、聴衆はそれを喜んで受け入れ、難なく高い評価を得ることができる。しかし、同じ音楽要素を古典音楽で演奏しても、聴衆は、「いやあ、さっぱりわからない!」という風に、古典音楽から遠ざかってしまう。

古典音楽家たちは、人々がなぜ古典音楽に魅力を感じないのか、その理由をもっと検証するべきである。今日歌われているガザルは、無限の可能性を秘めた柔軟な演奏形式が特徴だ。彼らの音楽は、音とフレーズの独特な組み合わせ、豊かで多様性のある表現、遊び心いっぱいのラヤ(テンポ)、活き活きとしたテーカー、古典音楽にも見られるようなティハイ(リズミカルな音節パターンを3回繰り返すこと)を用い、歌詞はわかりやすく、情感豊かで、その歌声は丸みを帯び、重厚でハスキーで、それでいて非常にしなやかだ。彼らはさまざまな歌唱法を駆使し、複雑に美しくデザインされたアクロバティックな唱法も、3オクターブもの音域もいとも簡単に歌い上げる。

その歌は、庭先に美しく描かれたランゴリ(インドで女性が庭などに描く砂絵)のように、瞬時に多くの人々を魅了する。上記のことから、ガザルを歌い上げるということは生易しいことではないことがわかるだろう。古典声楽をマスターした歌手であっても、多くの著名な芸術家たちが発展させてきたこのガザルの道に足を踏み入れる前に、熟考することが懸命だ。

ガザルを歌いながらハルもニウムを弾く、という新しいスタイルも発展してきた。想像を追って声が走り、声を追ってハルモニウムを弾く指が走る。ガザル歌手はハルモニウム奏者としても優れた人が多く、声とハルモニウム、タブラーの連携は見事である。タブラー奏者はガザル伴奏者として特別な知識、トレーニングが必要である。タブラーがラッギーの演奏をしてる最中、ガザルのムクラーを歌うのは非常に高度な技術が必要だ。

ガザルが古典音楽に影響を与えるかどうか、それはわからない。キヤールもガザル同様、オープンで柔軟であった。このような態度が、キヤールの存続を守ってきただけでなく、今日の古典音楽における主要な地位に座していられる所以である。キヤールはガザルの勢いから身を守る必要があるのだろうか?ガザルはトゥムリーのようにキヤールの隣に位置し、古典音楽のコンサートで受け入れられるようになるのだろうか。この問いに対する答えは聴衆にかかっている。

ガザルはアラビア語やペルシャ語圏からウルドゥー語圏に入ってきた。ウルドゥー語圏でその存在を確立しただけでなく、その後、ヒンディー語、マラーティー語、グジャラート語、カンナラ語など他の言語の圏内にも居場所を作っていった。文学的構造を維持したまま、常に新しい言葉よって装飾を施し着飾っていく。詩人と音楽家、双方がそれを魅力的なものにしていった。そしてそれを聴衆も後押ししているのだ。

 

◆このページの内容は全て、Dr.Prabha Atre著 「Enlightening the Listener」からの翻訳です。